●ポラック「A WALK through the FOREST OF SOULS」、ユダヤの考えについての章。ポラックさん自身はユダヤ人。カバラの話もあるが、それよりもユダヤ教にまつわる逸話を引き、それとタロットと結びつける。
ユダヤ教の伝統は聖書の中にあるのではなく、聖書の解釈の中にある。自分を支持する証拠の文章をトーラーに示せれば、予想外の過激な解釈をすることもできる。タロットも同じことができる。
ヒレルというユダヤ教の賢者は、荒らしの一団に踏み込まれ、片足立ちにさせられ「トーラーを全部教えるまで足を下ろすな」と脅す。ヒレルは「あなたにとって憎むべきことは何でも、他の人にやってはいけない」とたった一言でトーラーを要約し、あとの部分はその説明だと言って足を下ろした。ヒレルの後の賢者たちも、このようにトーラーを一言で説明することに挑戦した。ではタロットを一言で説明するとしたらどうなる?
ヒレルが書いた別の言葉から、具体的なリーディングのアイデアが上げられる。
・私はどのような形で私のための存在になる必要がある?
・私はどのような形で他者のための存在になる必要がある?
・私は今、何をすべきか、何を見つめるべきか?
という3カード。
●毎日の日記をnoteで書くことにしようか検討中。noteから少し離れていたのは、一昨年辺りにcakesの炎上事件があってから。当時、同じ会社の運営するnoteからも倫理的な問題意識で離れた人々がおり、自分もそうした考えで離れた。
substackでも似たようなことがあり、ghostへ移行した(が、ghostの自主運用の難易度が高すぎて失敗し、結局substackへ戻ることに・・・)。
ここ半年ほどはイーロン・マスクがtwitterをメチャクチャにし始めたため、これも倫理的な面を問題視してtwitterから距離を置く人々も増えている。マストドンへ行ったり。自分も全然、このところのtwitterを快く思えない。
個人的にはあれこれ行ったり来たりしているうちに、最近は「なんで、自分が悪いことした訳ではないのに、自分の育てた場を離れたり、新しい場所を探したりゼロからやり直さなければならないのだ!」という方向で頭に来つつある。
例えば、(商業的なwebサービスと国家を比べたらいけないかもしれないけど)日本という国のやり方に倫理的な違和感を感じたら、日本という国を離れればいい、と言うことは簡単だけれども、実際にやるとなったらそれは大変なエネルギーがかかるし、日本で培ってきた人間関係からも遠ざかることになるし、「おかしい」と感じつつもそこに居座って抵抗する道の方が現実的ではないか。となれば、webサービスにおいても「堂々と居座る」もありではないか?
noteは離れていた間もフォロワーさんが着実に増えており、「すみません新しい記事がなく・・・」みたいな申し訳なさも感じていた。それで先日やっとスプレッドの解説記事を書いたりしてみた。noteに書いておくと、古い記事を引っ張り出して読んでくださる方も多い。
そんなわけで、明日以降もしかしたら突然日記がnoteに移動している可能性もあります。こんな人に読ませるつもりゼロで書いている記事でいいのかとも思いつつ。
●タロット練習会、人が集まらなかったらどうしよう・・・という心配があった。が、もし少人数だったら自分がやってみたいリーディングやワークがいっぱいあるからそれを実験させてもらえばいいんだ!と思ったらそういう心配は吹っ飛んでしまった。むしろ少なめの方がいろいろな実験ができるのでは?