●エテイヤの神・霊・体リーディング、プレリリースの方の占い、引き続き。
いろいろ発見が出てきた。カードを右から左へ並べるのは、自分があまり普段使わない方法だ。そのため時間感覚やその方向性などが、技法の要求する感受性とズレていたのだが、その調整ができてきた。右から左へ進むのは、エテイヤはヘブライ語の筆記方向に敬意を評したから、とデッカーは書いていた。
やはり最初に開くカードから、その列の最後に開くカードに向けて、なんらかの時系列が進んでいると感じるのがしっくりくる。そのため、この技法では右を過去、左を未来、という設定にした。
また、ペアリーディングをしていくときは、最初のカード(一番右)と最後のカード(一番左)の比較から始まり、だんだん中央のカードたちをペアにしていくことになる。
このペアは、右(過去方向)から取ったカードと、左(未来方向)から取ったカードの比較となる。この二枚の間でも右から左へエネルギーが進行している、と感じることにする。そしてこれは一列のライン上を歩いていく進行のある一段階でもある。右から来た人が左へ行く、というようにも読める。
この場合、もしコートカードがペアの右に出たら、それは本人を示し、左に出たら本人に対峙する他者だ、と読むことにすることもできる。また、右は今(あるいは過去)の本人の姿、左は未来の本人の姿、とすることもできる。
コートカードでない場合でも、左のカードは本人が対峙している外部のエネルギーだとすることもできる。
このペアのとり方は、一列の中で鏡像関係の位置にあるカード同士を拾っているので、ペアの右と左のカードは鏡に映ったもの同士である、とも受け取れる。過去と未来が鏡合わせに、本人と他者が鏡合わせになっている状態でもある。過去(あるいは今)の自分が、未来の自分を鏡の中に見ているのだ(その鏡が現状では他者や外部からの出来事として本人に対峙してきているとしても、それは本人が乗り越えてそれそのものになる未来の本人の成長後の姿だ)。
また、ペアリーディングは外側同士のカードから、内側同士のカードへ進行していく。これはどう捉えるべきか。表面的なテーマから、核心的なテーマへ進行していると見るべきか。
神の列は偶数枚なので、ペアはぴったり終わる。しかし霊と体の列は奇数枚、ペアにしていくと中央のカードに1枚があまる。これはどのように捉えるべきか。外側が表面的、内側が核心的なのだとしたら、中央の1枚は核ということになる。
これが霊と体にしかないとはどういうことか。神には核となる中心がない。鏡写しがきれいに終わる。対称型という完璧な姿の神。しかし霊と体は非対称で、神に比べて不完全だ。しかし不完全だからこそ中心が存在している。鏡合わせが起こらない中心は鏡そのものとも言えるし、その本人そのものとも言える。
逆位置をどう捉えるか。このリーディングでは、逆位置であるものは正位置となる方がよい、という設定にしてもいいかもしれない。
ペアのカードに様々な意味のレイヤーが乗せられる。今回の場合は「未来/過去」「他者/自分」「未来の自分/今の自分」など。これらを複合的に読むと、今本人は右のカードの状態で、左のカードの状態や人物と対峙しており、もしそれが課題や困難として機能しているのであれば、それを乗り越えたとき自分自身が左のカードに成長していく、と読む。
両方正位置だったときは比較的エネルギーが順調に流れていて、右も左もすでに実現しているもの、と読むことができる。それでも右から左へという時間的移行を考慮することもできる。
●眠いからダラダラと書いてしまう。これはまたそのうちリーディング方法としてまとめていきます。
●ドゥルーズ襞読書会。今回の段落は難解で、わかったつもりになっても全然わかってなかった、発見も多い回。ただし顕微鏡的に文章を見ているので、俯瞰した視点も持ったほうがいいのではないか、という意見も出て、この章が終わったら少全体を見返してみましょう、という話に。
●エテイヤのやつの、自分のコントロールできていない詩文の部分について。これは本当に本文と矛盾する部分もはっきり見えてきたのだが、とりあえずこのままにしている。自分がコントロールできていないという感覚を持っていようが、コントロールできているという感覚を持っていようが、結果を読んだ人にとっては実はどちらでもいいのかもしれない。ただ「これってどうしてこういう読み方をしたのですか?」と問われたとき、ちゃんと答えられるか、答えられないかというだけなのだ。そういう質問に答えられないことを自分は恐れているが、ただリーディングを受け取る人にとっては、そういう自分の恐れは関係ないことだろう。
こういう恐れを持っているとき、ちゃんと原理を説明できないから説得力がなかったり機能しなかったり、ということがあるのだろうか。それともないのだろうか。シャーマンみたいな人たち、あるいは口寄せなどの技術など、トランス状態になって言葉を下ろしてくる場合はその言葉がシャーマンの意識的コントロール下に置かれているとは思えない。だけどその言葉は説得力を持って機能することもあるだろう。このとき、シャーマンが自分の言葉に合理的でないにしろ説得力を自覚しているか、それとも「なんかデタラメに言葉がでてきちゃった」みたいにその言葉になんの根拠を持っていないかによって、その言葉を受け取った側の心の中で働く効力は変わってくるのだろうか?